流刑地

作品の感想とか諸々、ネタバレありです。

ATRI

全ての創作物は、永遠の『子供の頃の夏休み』を目指している。
そんなことをどこかで見た。
ATRIをプレイして、そんな言葉を思い出す。
海面が急上昇し、陸地が海底に沈み、人口も激減。主人公の夏生が住む町には電気も通らない。
人類の黄昏時が物語の舞台である。
そういった物語のベースと、わいっしゅ氏による廃墟感ある美しい背景、海辺の町が舞台というのも永遠の夏休み、みたいなものを連想させるのかもしれない。

ストーリーのあらすじとかはもう省略する。
物語のテーマとしてはざっくりと

ヒューマノイドと感情

であるだろう。
ヒューマノイド(或いはAIをもつ全て)に感情、意識、ココロは存在するのか?といった類のものは珍しくない。
ATRIという作品は感情があるが、アトリ本人が自覚してないというアプローチをする。
流れとしては以下のようだ。
アトリは愛らしく、明るく、ポンコツであり、夏生と恋仲になるが、アトリが毎日記録しているログ(日記みたいなもの)を夏生が盗み見をすると、ヒューマノイドとして学習した結果、そう振る舞うのが最適解と判断しただけであるとわかり、夏生は落胆し、それ以降機械的にアトリが対応しだす。
とある事件がきっかけで自身の感情に気が付き、夏生への愛を自覚する。

つまり彼女はずっと矛盾を抱えていたわけである。アトリの一人称視点での描写は少ないが、その矛盾との葛藤みたいなものに気がついた時、誰でもアトリを愛おしく
思えるはずである。(具体的なシーンは伏せるが)
あとは機械的に対応し始めたアトリも夏生と交流していくうちに以前のような人間的振る舞いをちらつかせるのも微笑ましい。

感情を自覚していないという状態は、人間でいえば心を殺した状態に等しく、喜びや悲しみを手にしても感情に乗らなければ表面に上がらないが、内側には蓄積されていく。
だから余計辛くなる。アトリは長いこと感情を蓄積してきた、そんな不器用な彼女だからこそ愛おしく思える。


感情というものがあると定義するにはどうしたら良いか。
ヒューマノイドに感情がないという固定概念がアトリに感情があると気が付かせることを遅らせていた。
表面上そう振る舞っているだけだったら、心は傷がつかないというわけではない。
アトリは何度も、心に傷はつきません、ロボットなので。と言う。こうアトリが繰り返し言っている間にも彼女は傷ついていたに違いない。

人間には感情がある。それを証明する術を私は知らない。私が「個」であることを表現するには範囲が広すぎる。
AIに感情がない。いかに人間として振る舞っても。それをどう証明するのか?
乱暴な考えかもしれないが、感情を定義するのも感情じゃないだろうか。
猫や犬は私達の良きパートナーである。動物たちにも当然感情がある。私達と動物は言葉によるコミュニケーションをはかれないが、多分今こんなことを考えてるだろうな、なんて感じてしまう。動物に人間が勝手にアテレコするのがウケてるのも事実だ。
勝手にそんなことを思うのも私の感情による判断だ。

感情があることを定義するならこんなもんでいいんじゃないかと思う。

アトリは自身の活動停止期限の一日前に自分の機能停止を願う。記憶の全てが消えてしまうことを恐れたからである。夏生はそれに応じる。
それから60年経ち、夏生は人生の最後の日、アトリと残された最後の一日を過ごして物語は終わる。
彼、彼女のいつ終わるかわからない、最後の夏の一日を過ごすのだ。

goodエンドだけでみると永遠の夏休みが終わっていくような寂しい気持ちが残るが、trueをふまえると冒頭で述べたような、

全ての創作物は、永遠の『子供の頃の夏休み』を目指している。

そんなことも本当に思えてくる。
夏に対する郷愁に似た想いが蘇る。そんな爽やかさと切なさが残る、そんな作品だ。


つらつら書いてきたが、どんな感想を持とうが、プレイ後にはみんなアトリのことが好きになっているだろう。
そんなことを思っていると、アトリが「当然です!私は高性能ですので!」と得意気に言ってくるに違いない。そう思えるのも、彼女に感情があると思えるからであるだろう。
ストーリーに斬新さは正直ないのだが、実によくまとまってると思う。
久しくこういったものをみてなかったなぁ...


ちなみに私の好きなシーンは「お久しぶりです。大きくなりましたね。」のシーンである。ずるいでしょあんなん。