昔の話
記憶とは不思議なもので、水面下に沈んだ思い出がフワッと水面上に浮かんだりする。
昔、MMORPGをやっていた。ラグナロクオンラインだ。その時入ってたギルドのことをなんとなく思い出した。
その時のマスターが絵が上手くて、その人にあたりのとり方とか、諸々教えて貰ってから未だに私は絵を描いてる。
オフ会にも行ったことがあって、当時は社交性のカケラもなかったし、最年少だったので、イマイチ溶け込めなかった気がする。
まぁそういった色々を思い出して、懐かしくて「ギルド名 RO」で検索した。当時、規模の大きめなギルドは大体テキストサイトのようなホームページを持っていた。
プレイ日記を個人で書き続ける人もいて、そういったサイトをまとめるポータルサイトなんてのもあった。
検索した結果、当然サイトは残っておらず、何故かBBSだけ残っていた。
BBSの内容をみて、そういえばマスターがニュースサイトの管理人やってたなと思い出し、改めて検索。
見つけはしたが、長いこと放置してたので一旦閉めますとだけ残されていた。
twitterをやってたはずだけど、使ってそうな名前で検索をしたけどみつからず。
ここで完全に道が断たれてしまった。
見つけたからと言って話しかけるわけでもないと思う。元気なのかなとか、それだけ。相手が覚えてるとも限らないし。
当時いくつだったのかもよくわからないし、もちろん実名を知ってるわけもない。ただ残ってるのは思い出だけ。
ネットでの人の繋がりって不思議だよななんて思いつつ、あの頃出会った人たちがみんな元気だといいな、と少し感傷的に思うだけである。
トップをねらえ!
あ、そういえばみてねえや。
ぐらいに軽い気持ちでみた。
軽い気持ちでみていいあれじゃなかった。
1話はどこかでみたことがあるようなパロディー色が強く、とっつきやすい造りになっている。
が、4話あたりから流れが大きく変わってくる。5話の合体シーンや最終話の特殊演出、オカエリナサイはもう語る必要はないだろう。
トップをねらえ!の重要な部分として、
パロディが多い今作だが、パロディをオリジナルに昇華させ、やってみたいことをやりきったという勢いだろう。
やりたいことをやるという土台があって、それを魅せるにはどうするか、どうすればみてもらえるかを積み上げた、よく考えられた勢いを感じた。
結果、後のロボットアニメに大きな影響を与えたのは言うまでもないだろう。
それじゃあ続編のトップ2も面白いとふんでみてみた。
トップをねらえの要素はあるし、正当な続編作であるのはわかる。
わかるのだが、トップをねらえ!のファンが造ったパロディー作感が強い。
勢いはある、だが勢いでストーリーの粗さを誤魔化しているようにみえる。
例えば終盤ラルクがノノに友達になって欲しかったのにというが、そこまでラルクがノノを思っている描写が薄く、直前に回想を入れることで補完してたり、ニコラの扱いが雑だったりする。
あとはバスターマシンが妙に神格化されていたのも気になる。
「本物のバスターマシンパイロットは、本物のノノリリは、心にバスターマシンを持っているのだから…。」
とはいうが、わかるようでわからない。絶対的な強い心みたいなニュアンスではあるが、そもそもトップをねらえ!でのガンバスターの存在がノリコを鍛えたわけじゃないし、人間ドラマの中でノリコは成長していったように思う。バスターマシンありきの話ではなかったはずである。
「強さは身体の大きさじゃない。
心の力だ。そうなんだろ、ノノ!それが、努力と根性だ!」
とラルクは終盤で言う。雰囲気で納得してしまうが、努力、根性はトップをねらえ!ではキーワードだが、ラルクが語るには、それまでの描写では説得力にかける。
総じて、トップをねらえとはバスターマシンとはこうあるべきという監督の中で記号化された思考が強すぎるのである。
それを勢いで納得させようとするのだが、その土台をそれまでに描写できていない。
勢いも度が過ぎればただのデタラメである。
トップをねらえ!という看板を外せば6話という短い時間でよく作られているのだが、結局パロディのパロディぐらいの薄っぺらさを感じてしまうし、なにがやりたかったのか伝わってこなかった。
しかし、今作の後にグレンラガンが制作された。そうであれば同監督の中で昇華されたと考えられる。
ならばまたトップ2の評価も好意的なものとなる。
ともあれ、名作とは語り継がれるものであり、制作後数十年たった今、はじめて見ても感動を与えられるものである。
後ろの正面
アニメが好きだ。
子供の頃からずっと。
大学生の頃なんかは現行の深夜アニメに加えて、少し昔の深夜アニメにも手を出していた。
今でもアニメは好きだ。
でも最新の深夜アニメをみることはなくなって、より過去のアニメをみている。
2000年代初期あたりの深夜アニメなんかは、そもそもオリジナルが多く、ストーリーも大人びたものが多く、試行錯誤しながらやりたいことをやってる感じがして、多様性を感じる。
現行のアニメが面白いかそうでないか、それは主観でみれば面白くない。ただそれは私がターゲット層に入ってないからにすぎない話だ。
時代によって流行が変わっていくのは悪いことではない。
少し00年代の深夜アニメと近年の深夜アニメを比較してみる。
絵的な部分
近年は色彩の豊かさやエフェクト技術の向上、絵的な表現力は確実に向上している。
作画崩壊というワードが広まってから、平均的にレベルがあがったように思う。
それではストーリーはどうか。
00年代のアニメの傾向として、主人公の成長物語であることが多い。序盤〜中盤を導入、キャラの掘り下げをして、中盤〜終盤でシリアスパートに入り主人公が問題に直面する。そしてそれを解決して、物語は私達の手から旅立っていく。ストーリーあってのキャラクター。ある意味ドラマのような作りだった。
近年の傾向としては、娯楽性が高くなった。というよりも、物語よりキャラクターにウェイトをかけるようになっている。数話に渡って思い悩むシリアスパートがある作品の方が少ない。全部観終わった後でも私達の傍に未だ物語が居残るようなものが多い。
物語が旅立っていくか居残るかと表現した。
オリジナルが多かった00年代では、それで物語が完結していたが、近年ではメディアミックスが主である。なので話の続きがまだあるようなどうとでもなるような未完で終わるものが多い。ある意味漫画やラノベのプロモーションみたいな立ち位置をアニメがとっている。
結果、近年のアニメは終わっても作品が続いてたりするので別段寂しくもない。
あとは娯楽であるアニメに重たい局面を持つことが視聴者が嫌いだしたのも大きいのだろう。言わんとすることもわかるけれど、逆にストレスフリー過ぎて牧歌的な毒のないアニメが増えたなぁとは思う。
その点が私がターゲット層にいないと考えるところで、別に近年のアニメが悪いわけではない。
だからアニメと一括にしたって同じ視点で昔と今を評価するのは危険だと思っている。
もはや構造が異なってきているのである。
それは産業として正しい変化だったのかもしれない。(大々的なメディアミックス、劇場アニメ前提等)
しかし、このまま進んでいくと文化としては痩せ細っていくのではないかと個人的に憂いているのも事実である。
現実の恨み辛みを場当たり的に捻りもなく、アニメないしは小説ににぶつけられているような現状はあまり好ましいと思えない。
境界線上の
生きてるのか死んでいるのか。
辛いのか辛くないのか。
そう聞かれればわからないと答える。
楽しいと思えてたことがつまらなくなって、空白みたいな休日が増えた。
空の高さを気にすることが減った。
白い息を吐いてやっと寒さに気がついた。
熱いものを飲んで生きてることを思い出す。
雨が降ったのが久しぶりといわれて、あぁそういえばそうだと思う。
私の消費の先になにがあるのだろうか。
最近、それが少しみえてきたきがする。
降らない雪
冬といっても私の地域では雪は滅多に降らない。降っても翌日には泥と合わさってぐちゃぐちゃになる程度しか降らない。
雪が降る冬というのは素敵な思い出ができるものなんだろうなと夢想している。それは良し悪し関係なく。
だから私の冬はどこまでも寒いだけの耐え難い季節なのだろう。
自分が死ぬ季節を昔から感じていた。
もともと日照時間が自分の体調に深く関係している体質で、冬は身体的に精神的に脆弱だった。
結果、皮肉にも自分が生まれた季節と同じ季節に自分が死ぬものだと思っている。
だからいつでも夏に憧れている。夏への扉を探している。夏になっても夏を探している。私の求める夏など空想に過ぎない。終わらない夏休みを夢想している。
それでも少しの希望がある。この時期の淡路島には水仙が咲くらしい。
行っても何も変わらないのはわかっている。何かが始まるわけではないのはわかっている。
わかっていても朝の通勤の車で、いつも曲がっている方向と逆にハンドルを切ったら。
それは淡路島に繋がっているんじゃないか、夏への扉に手をかけるようなものなのではないか。
私の期待の先に私の期待通りのものがあったことなんてない。いつだって時代に噛み合ってない私にあるのは極々当たり前の他人の普通が待っている。それは裏切りじゃない。私がズレているだけ。
それでもこの私の期待は間違いないじゃないって信じて、今日もいつもと同じ方へハンドルを切るのである。