フロントメモリー
梅雨がさっさと明けて、熱気が纏わりつくような嫌な陽気に紫陽花が日陰で所在なさそうに咲いている。
思えば転勤してきて一年が経つ。
色々あった気がするが、別段一歩前に進んだようにも思えない。
くだらない揉め事に巻き込まれて、そんなのばかりだ。
たいして高度な事をしているわけでもないのに
、みんな自分にスポットを当てたがる。
退屈なんだろうな と決して回ってこないスポットライトの行先を見ながら、誰かを慰めるような。
スポットになんて当たりたくない、ただ巻き込まないで欲しい。
田んぼで叫ぶわけでもなく、スリーポイントを放つわけでもない。振り返ればなんの意味があった一年だったんだろうと思うと惨めにはなる。
一歩進んだのは年齢くらい。
私のフロントメモリー。
頑張る必要があるのかどうか、その答えもあの陽炎の中に消え去るのだろう。
冬の花、枯れて
春の桜も散った。
木々が緑に色付き始めた。
毎日峠を越えて通勤してると、より季節の変わり目が視覚化される。
季節を越えると、まだ生きているんだ、なんて思う。
喫煙というぬるい自傷行為を繰り返して、紙タバコ自体の文化もゆっくり死んでいこうとしている。
知らない間に好んでいたタバコの銘柄が無くなっていた。
ラッキーストライクのなんていう名前なんだろう。
よくわからずに吸ってたんだな。
ぬるく、ゆっくり、春の日差しの中にいるように、色んなものが死んでいく。
自分の好きなものさえも、自分よりも先に死んでいく。
どうして好むものは終わっていくものばかりなんだろう。
どうして自分ばかり残されるんだろう。
流行みたいなのに飛びついていれば、こんな気持ちにならないんだろうけど、そうできないのはもうそういう性だから。
失っていくのが自分の人生だから。
新しく買ったタバコがいまいちしまらなくて、それでも今日もぬるく、ゆるく自傷行為を繰り返す。
八本脚の蝶
文庫本にして約500頁。
片手で持てる重量。
彼女の最後の2年間の思索の断片。
纏めてしまえば呆気なく思える重量。
真摯にこの本に向き合ったのであれば、この本は氷山の一角でしかなく、背景に莫大な図書館が存在している感覚になるはずだ。
その最深部に辿り着けば彼女の私的価値体系、物語、小さな信仰をようやく理解出来るのだろう。
通して読んだ後の感想を問われれば、打ちのめされたが一番的確ではないだろうか。
読後の感情を断定できないほど、私は混乱していた。この感情に私は出会ったことがないからで、この感情に呼称がないからである。
孤独でも絶望でも希望でも信仰でもない。
私が普遍で誰もが感じていると思っていて、見過ごしていた或いは見ぬふりをしていたものは、普通の人が感じていないものであると告げられた。
そういった見ぬふりしていたものが意識の中の扉だとしたら、彼女はコンコンと扉を叩き、貴方の苦難はここにあると言わんばかりに次々に扉を開いていった。
そしてその先にあるものは。
その先の景色は、自分で見てきてほしいと。
数ある景色の果ての1つが本書の最後であるだろう。
ここまで綴ってきて、何言ってるのかわからないが大多数だろう。
ただきっと、本書を大事にしたいと思った方には幾分伝わるのではないだろうか。
私個人として、倫理や哲学を学ばず、私的経験と物語との出会いで価値体系を構築してきた。
結果、他人に理解される事の方が少なく、自己の意識について考える人間の方が稀なのだと知ったのは、とある友人と出会ってからである。(私の人生において、かなり後半である)
その他、諸々の私的価値観については、本書で言語化して頂いていた部分は多く、心が暴かれるようであった。
読後、無防備に晒された私の精神は彷徨うしかなかったのだ。
であればなにかに縋るのが救いだろう。
それでは二階堂氏と対話したとしたら良かったのか。
それでも、彼女と会話したとして、話はあわないのだろう。
彼女は激しく祈り続け、きっと私の祈りに応えてくれないだろうから。
体系的に感想を残すには、私の学が足りず出来ない。これだけは断言できる。
きっと彼女の開けた扉の先に進んで行かざるをえない。
その結果、この身を捨てることになっても。
それは私の結論なのだから。
雪が降って
雪って特別で、ふわふわと、綺麗なものだと思っていた。
私の出身地は、数年に一度積もらない程度に雪が降る。だから私にとって雪は特別なものだった。
一番印象に残っているのは、八王子に住んでいた頃の雪。朝、目が覚めてカーテンを開けると、雪が積もっていた。定期試験の朝だったと思う。
驚いたのはその静けさだった。学校まで歩いていったが、自分が新雪を踏む音だけしか聞こえなかった事は鮮明に覚えている。
愛知に来て半年、もう既に数回雪が降っている。積もりはしないが。
この辺りはよく降るのかと尋ねると、こんなに降るのは珍しいと返ってくる。
未だにこの街に慣れない。
同じ道を行って、帰ってくる。その繰り返し。
カーナビ無しではどこにも行けないし、車屋の運転も得意ではない。
結局、年末年始もここで普段通り変わらず過ごした。
ある朝、
ふわふわと舞う雪に朝日が反射して、眼前に美しい光景が広がった。
なのに、私の心は動かなかった。
綺麗とかそういう感想も抱かず、寒さで震える手をどうにかしたかった。
吐く息は白く、タバコの煙よりはやく消えていく。
そういえばタバコを吸う量が増えた気がする。
私自身、変わったんだろう。
知らぬ街で見る雪は、退屈で、冷たいものだった。
冬の磁石
マンションを出て、駐車場への短い距離は無駄に開けていて、凍えるような朝に空を見上げては寒々しいなと思う日々である。
冬のせいか、日々の仕事による磨耗か、それはおいておいて、少し前まで私は何に熱中していたんだろうか思い出せなくなっていた。
劇場版レヴュースタァライトは素晴らしかったし、FF14暁月のフィナーレはまだ途中。イラストにぶつけたい何かもなく、手が付かない。
Vtuberとかソシャゲとか短いインスタントな娯楽で休日が食い潰されている。
まぁとにもかくにも年が明けようとまるで心が動かされていない。
なにかが緩やかに終わっていくような感覚。
これじゃあいけないんだけどなぁ。
それはわかっているけど、わかっているだけ。
寒々しいなと思う。
秋の気配のアルペジオ
テカテカと照らす太陽の熱もいつの間にか雨が集中しているうちに、何処かへ消えた。
アスファルトで土に還れなくなったセミの亡骸を踏み潰してしまった夜、新天地での秋を感じていた。
新しい土地に来て2ヶ月が経つ。
相変わらずカーナビもなければろくに外出も出来ないが、生活の基盤は整って、この地への馴染みが深まってきた。
大きな不満はない。
仕事も忙しいが、悪くない。
少し出れば買い物に不自由もない。
いうならば休日の空虚さだろうか、何故か焦りを感じる。本当にこうしていていいのかって。
これに答えなんてないだろうけど、どこか死を意識して生き続けていたせいだろうか。
冬の淡路島の冷たい海に足を浸ける感触を想像している。
紅葉の秋を迎えて、息が白くなる冬が来て、ここは雪は降るんだろうか。それを超えれば春が来て。そうなればここで一年過ごしたことになる。
そこまでくればちゃんと調子は上がっていくのだろうか。
ロビーを出て、駐車場に向かうまでの開けた景色を、意識して見続けることはできるのだろうか。
Wonder Palette
生まれた街が嫌いだった。
昔から良い思い出がなかったから。
上京した時は踏み潰すような気持ちで故郷を出た。
戻ってくることになって、あぁ結局なにも自分は変わってないんだって思い知らされた。
そしてまたこの街から旅立とうとしている。
車から眺める梅雨が明けたこの街が、今までより少しだけ鮮やかで。
旅立つには少し戸惑いがあることに気がついた。
旅立つ事が決まってから、色々な人の感情が顕になって、今まで見て見ぬ振りをしていた。
垂れていた蜘蛛の糸を自分は掴もうとしていなかった。
誰のせいでもなくて、自分のせい。
自分が持っている色とその補色。
今はそれが混ざって黒く濁っている。
繰り返して、失っていくんだもっと色々と。
蝉の声がし始めて、入道雲が浮かぶ水色の季節。
濁った自分と対比されて、歪さが露見されるみたい。
色は混ぜ合わせるともう元には戻らない。
濁ったまま、この街を出る。
やっぱりこの街は嫌いだ。
またいつか帰ってくるよ。